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青年海外協力隊に参加するまで①まさかの不合格!

こんばんは。

今回は私が協力隊に参加するまでの経緯について書いていきます。 今後、協力隊や海外ボランティア、転職などを考えている方の参考になれば良いなと思います。

目次

  • 学生時代
  • 社会人
  • 試験(1回目)

学生時代

海外に興味を持ったのは大学生の頃。きっかけは国際協力、というより単純に学生の間に異文化に触れたい、英語に触れたいと思っていたくらいでした。

私の大学があったのは福島県福島市東日本大震災の翌年の入学ということもあり、当時はまだ震災の爪痕が色濃く残っていました。 当時の状況については、また機会があったら詳しく書くかもしれません。

そんな状況だったため、自ずとボランティアに関わる機会も多く、講義自体も今後の福島の復興や震災の現状と関連づけたテーマが多くありました。

そんな最中、震災後の福島の現状や活動をアメリカでプレゼンしませんか?という募集を発見。国際交流基金の学生交流事業に参加することになりました。

今思えば、このアメリカでの経験、そして福島でのボランティアの経験が協力隊を目指す原点の一つでもあります。(他にも理由はたくさんあるのでまた次回書きますね)

社会人

アメリカでの経験は大学2年生の春休み。3年生からはインターンシップなども始まり、就活ではボランティア事業、CSR、社会貢献度、海外との関わりに注目してエントリー。

結果的に当時の第一志望には届かず、心は晴れず。そんな時にふと思い出したのが青年海外協力隊でした。

大学のある福島の二本松市にはJICAの二本松訓練所があります。卒業間際になって慌ただしく協力隊について調べ始めると、いわきでの説明会に足を運びました。 卒業式の次の日には、二本松訓練所での説明会にも参加(笑)

この時出会った隊員OBや派遣前の隊員との出会いが、その後社会人生活中の仕事のモチベーションにもなりました。

肝心の前職は?というと、ロードサービス事業をメインとする会社で3年半働きました。 公益部門での勤務で携わったのは、

・広報、取材

・ホームページ記事作成

・書類の翻訳、海外からのお客様への対応

・交通安全講習で学校や企業、幼稚園へ

・イベントの企画、運営

など、多岐に渡りました。 今振り返ると、本当にやりがいもあったし、いろんな経験をさせていただきました。 仕事の中でたまに英語を話す機会があったこともモチベーションの維持につながりました。

出張先から帰る時に食べた鳥飯。美味しかった。

試験(1回目)

勤務3年目の春、遂に協力隊へ応募。 協力隊の試験は、一次試験(書類審査)、二次試験(希望職種の面接と人物面接の2つ)があります。

一次試験を突破した頃、上司にも相談し、幸いにも背中を押していただきました。 しかし、1回目と書いているのでお察しかもしれませんが、面接試験で落ちてしまいました。 原因は根拠のない自信(笑)

協力隊には教師や看護師、サッカーコーチ、自動車整備士など、120を超える職種があります。

私が志望していたのはコミュニティ開発という職種。実際に村や地域のコミュニティに入り、住民の収入向上や生活改善に携わるというもの。

実はこの職種、そこそこの語学レベルを求められる案件もありますが、国家資格などは特に求められません。それ故か倍率も全職種の中で最も高い分野。

さらに、コミュニティ開発の志望者は、将来国際機関で働くことを目標としている人、複数言語を話せる人、聞いたことのある名前の大学の人など、猛者がわんさかいました。

心持ちも情報集めも努力不足だったのが1回目の試験でした。

次回は、不合格からのその後について書きたいと思います。