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青年海外協力隊に参加するまで③2回目の挑戦

こんにちは。 いよいよ緊急事態宣言の範囲が全国に広がりましたね。

こんな世の中の状況、先日JICAのホームページを見たら、2020年春募集(協力隊の選考)は中止になったと書いてありました。

自分も今後どうなるかわかりませんが、協力隊の試験を受けよう!と思っていた方々は何とも言えない気持ちだと思います。

さて、そんな世の中、そして我々の状況ではありますが、いつかまた目標にチャレンジできる日を願いましょう。

その時の一助になればと、今日は一度不合格となった協力隊の選考に再挑戦した時の話を書きたいと思います。

不合格の後に

前回、前々回の記事でも書いたとおり、私自身1回目の選考は2次試験の面接で不合格となりました。

青年海外協力隊に参加するまで① https://tnoma.hateblo.jp/entry/reasons

青年海外協力隊に参加するまで② https://tnoma.hateblo.jp/entry/entryfirst

正直その後は、いろんな選択肢を考えていました。

スペイン語を学び、留学

・アジア圏で英語を生かして転職

・プログラミングを学ぶ

などなど、協力隊を受け、そして不合格となることで将来について色々考えていた時期でした。

ただ、そんな中でも、職場の上司がもう一度挑戦することを押してくれたのもあり、2度目の挑戦をすることになります。

準備、そして準備

当時、スペイン語を学びたい気持ちが強かったこと、大学卒業前にお会いした協力隊の方がニカラグア派遣であったことなどから中南米に行きたい気持ちが強くありました。

また、前回書いたように、最初の試験ではコミュニティ開発という職種を受け不合格でした。

全職種の中でも倍率が最も高く、海外の大学院を経てきた人や、国際機関を目指す人、バイリンガルなどが集まる職種。

どうしても受かりたいなら倍率の低い職種を目指すのもあり、なんていう記事も読んでいたので、出願時にはどうするか迷いました。

ただ、やはり自分が興味のある職種はコミュニティ開発だったので、自称「等身大のサラリーマン」がどこまでできるか挑むことに決めました。

ただ、前回同様に準備不足になることは避けたい。何よりいろんなキャリア、経験を持つ人と試験を受けるからには、さらに準備が必要だと考え動きました。

参考までに2回目の挑戦で気をつけたこと、1回目と比べて改善したことを記していきます。

1次試験(書類選考)

・要請内容から支援対象を第一に考え、自分の経験と合わせて何ができるかを書き出す(具体的に)

1次試験は元々前回も通過していましたが、より相手目線に立って文章を書きました。

ここは普通の就活、転職と変わらないと思うのであまり深掘りはしません。

1次試験通過後

1次試験を無事通過し、ここからが前回と準備の仕方の心構えを変えたところです。

まず、当時の自分の希望案件は、

ボリビア

東ティモール

・フィリピン

の3カ国でした。

前述のように南米圏に行きたいという思いもあり、第1志望は南米ボリビアの観光振興案件。仕事内容も前職と通ずる部分があると考えていました。

東ティモールを第2志望に選んだ理由は、よく知られる国際機関への派遣という内容で、興味があったから。

フィリピンについては案件内容が自分のこれまでのバックグラウンドにリンクし、なおかつ英語圏であったことなどがあります。

案件の選び方は人それぞれですね。

そして、ここからがポイント。2つの行動を起こしました。

まず1つ目!

・インスタでボリビアの協力隊員と交流する

協力隊の人たちは、ブログやSNSで活動の様子を発信していることが多いです。

自分の場合は、Instagramボリビア関連の写真にいいねを押していたら、その写真の投稿主がボリビアで教育隊員として派遣されている方で、なんと向こうからDMをいただきました。

というのも、私のプロフィール欄に、 「目標はボリビアで活動すること🇧🇴」という文言を入れていたことがきっかけで、 「ボリビアで働きたいんですか?!」というメッセージを送っていただけたのです。

こんなことあるんだぁ、と思いましたが、それをきっかけにボリビアの現状や活動の話など色々質問することができました。

さらには、自分が希望していた案件に前任として派遣されている隊員にも繋いでいただき、よりリアルな現場の話を伺うことができました。

これをもとに、自分が何ができるのか、より具体的なイメージを作ることができたと思います。

そして、2つ目!

協力隊OBに会いにいく!

前回、そして今回の記事でも書いたように、私は以前説明会で協力隊の方々にお会いしたことがありました。

そのうちの1人、ニカラグア派遣の野球隊員OBの方に会いに行きました。 もちろん突然の連絡を謝った上で、事情を説明した上で。

試験の時にどんなことに気をつけたか、 現地での活動はどうだったか、 困ったこと辛かったことは何か、 2年間で何が印象に残ったか、

いろんな話を聞かせていただきました。 やっぱり直接経験者の話を聞くのは大事で、自分のイメージとの違いなども知ることができました。

最後に3つ目!

日本の地方を見に行く

案件内容が観光振興に近いものだったので、個人的に調べた上でそのイメージに近い地元近くの中山間地域に足を運びました。

中山間地域でありながら、観光名所もたくさんあるこの地域。日本とボリビアという違いはあれど、何か生かせるもの、繋がる要素はないか?とひとりでフィールドワークをしていましたね。笑

2回目の挑戦

思ったより文章が多くなってきました、、笑

2回目の2次試験では、これらの準備を元により具体的なイメージをもって面接に挑むことができました。

具体的なイメージを持つことで、面接官からのあらゆる質問に根拠をもって答えられる。

この人がどれだけその国や案件について、対象者について調べてきたのか、その思いや本気度を見られるのが面接。

「1度落ちてから2回目の挑戦、あなたは今回何をしてきましたか?」

実際に聞かれた質問です。

その前の数ヶ月準備をしてきた自分。 具体的なイメージをつくり、より自分事として捉えるために取り組んできたことを話すことができました。

結果は合格、そして予想外!

こうした準備の甲斐もあってか、2回目の挑戦で合格することができました。

しかし!派遣先はボリビアではなく、ウガンダ🇺🇬でした。笑

面接ではどんな国でも可能性があれば行きたい!と話したこともあってかなぁ、と思っています。

また、ボリビアの案件には自分より適性の高い人がいたのでしょう!結果的に自分はウガンダになりましたが、とにかく協力隊員として、コミュニティ開発という職種でチャレンジする機会を得られたこと。

これが大きかったです。なので、逆にそれからはアフリカやウガンダについて、たくさん調べました。

と言うことで、3回にわたって書いてきた協力隊になるまでの経緯。

合格の通知が来てからもう1年以上経ちました。

そして、今私はウガンダではなく、日本にいます。予想していなかった緊急退避。色々な思いもありますが、これが人生ですよね。

とにかく、いずれ協力隊の募集が再開された時に、それを志す方々に向けて少しでも役に立てればと思い書いてきました。

また皆さんがチャレンジできる日が来るように、それまで自分を磨きましょう!私も自己研鑽に励みます!

それではまた!

青年海外協力隊に参加するまで②不合格の原因は?

こんばんは。

前回に引き続き、私が協力隊に参加するまでの経緯について書いていきます。(写真は関係ありません)

今回は1回目の試験を少し詳しく振り返り、どんな気づきがあったか記したいと思います。

協力隊を目指す方や、転職をされる方の参考になりますように。

なぜ不合格だったのか

前回も書いたように、私の協力隊へのチャレンジ1回目は、二次試験の面接で不合格という結果でした。

青年海外協力隊に参加するまで。まさかの不合格! - mpola×mpola ~青年海外協力隊inウガンダ~ ▲前回の記事、協力隊までの経緯①はこちら

理由は複数考えられて、それらの一大要因となったのが、根拠のない自信でした。

社会人3年目で初めて応募した一次試験。書類審査を通過したことでなぜか、気持ちが浮ついていました。

二次試験の2つの面接では、自分の希望した案件、国、これまでの経験をどう生かすのか、などについて質問されます。

よく考えればわかることですが、その案件についての下調べは必須。

・現地はどんな場所で、どんな文化があるのか

・その案件において、自分はどんなことができるのか。

こういったことを深く掘り下げて考えておく必要があると思います。新卒で就活していたときのことを忘れていましたね。笑

もちろん調べる、といっても現地に今すぐいけるわけではありません。 中にはこれまでボランティアでその国に関わったことがあり、詳細を知っている、なんていう人もいます。 ただ、そういう特殊なケースでない場合、最低限の情報を調べる努力は当然必要です。

それから、自分の経験を案件に当てはめて考えた際に、それをどこまで深掘りできるかが大切です。

当時私が第一志望であげていた内容は、

・コミュニティ開発

・国はマレーシア

・配属先はNPO

・対象は現地の民族(オランアスリと呼ばれる

・活動は現地民の支援に向けた資金集め、広報

ざっと、こんな内容でした。

面接では、主に広報や資金集めをどのようにし、自分の経験をどう生かすかを話しました。

しかし、対象者について考えることが一番大切。 どんな仕事もそうですが、顧客のことをないがしろにしてサービスを考えたり、商品を作ることは無いですよね。

海外ボランティアも同じで、活動の対象となる住民、子どもたち、女性グループなど、それぞれについて知る必要があります。

偉そうに書いていますが、それができていなかったのが1回目の二時試験でした。

「オランアスリってどんな民族か知ってる?」

「もし、現地訪問の際に医療サポートが必要だったらどうする?君の職歴とは関係ないことだけどさ。」

これらの質問、みなさんならどう答えますか? 2つとも実際に聞かれた内容の一部です。

オランアスリってどんな民族か、これについては下調べをしていれば答えられます。 私は調べ不足で答えられませんでしたが、、

前職とは関係ない医療サポートを求められたらどうするか、これも口籠ってしまいました。 前職と医療、これが結びつかなかったのです。

ただ、しっかり案件と現地のことを調べて、イメトレしてきた方だったら違ったと思います。

なぜなら、医療の経験がなかったとしても、次のようなことが考えられるからです。

・医療者と現地人をつなぐ集会を企画する

・集会で医療知識の啓発を行う

・集会で学んだことが継続されているかモニタリング、記録する

・医療者から簡易的な指導法を教わり、医療者が来れない時には、自分が簡単なワークショップを行う

などなど、考えればいくらでも出てきます。 他の仕事でも、転職でもそうだと思いますが、どこまで自分ごととして、物事を捉えられるか、イメージできるかがカギなのではないでしょうか。

と、今日はここまで! これでもかなり要約して書いていますが、実際はもっと反省点がありました。笑

次回は2回目のチャレンジの際に、どんな準備をしたかについて書いていきます!

それではまた!

青年海外協力隊に参加するまで①まさかの不合格!

こんばんは。

今回は私が協力隊に参加するまでの経緯について書いていきます。 今後、協力隊や海外ボランティア、転職などを考えている方の参考になれば良いなと思います。

目次

  • 学生時代
  • 社会人
  • 試験(1回目)

学生時代

海外に興味を持ったのは大学生の頃。きっかけは国際協力、というより単純に学生の間に異文化に触れたい、英語に触れたいと思っていたくらいでした。

私の大学があったのは福島県福島市東日本大震災の翌年の入学ということもあり、当時はまだ震災の爪痕が色濃く残っていました。 当時の状況については、また機会があったら詳しく書くかもしれません。

そんな状況だったため、自ずとボランティアに関わる機会も多く、講義自体も今後の福島の復興や震災の現状と関連づけたテーマが多くありました。

そんな最中、震災後の福島の現状や活動をアメリカでプレゼンしませんか?という募集を発見。国際交流基金の学生交流事業に参加することになりました。

今思えば、このアメリカでの経験、そして福島でのボランティアの経験が協力隊を目指す原点の一つでもあります。(他にも理由はたくさんあるのでまた次回書きますね)

社会人

アメリカでの経験は大学2年生の春休み。3年生からはインターンシップなども始まり、就活ではボランティア事業、CSR、社会貢献度、海外との関わりに注目してエントリー。

結果的に当時の第一志望には届かず、心は晴れず。そんな時にふと思い出したのが青年海外協力隊でした。

大学のある福島の二本松市にはJICAの二本松訓練所があります。卒業間際になって慌ただしく協力隊について調べ始めると、いわきでの説明会に足を運びました。 卒業式の次の日には、二本松訓練所での説明会にも参加(笑)

この時出会った隊員OBや派遣前の隊員との出会いが、その後社会人生活中の仕事のモチベーションにもなりました。

肝心の前職は?というと、ロードサービス事業をメインとする会社で3年半働きました。 公益部門での勤務で携わったのは、

・広報、取材

・ホームページ記事作成

・書類の翻訳、海外からのお客様への対応

・交通安全講習で学校や企業、幼稚園へ

・イベントの企画、運営

など、多岐に渡りました。 今振り返ると、本当にやりがいもあったし、いろんな経験をさせていただきました。 仕事の中でたまに英語を話す機会があったこともモチベーションの維持につながりました。

出張先から帰る時に食べた鳥飯。美味しかった。

試験(1回目)

勤務3年目の春、遂に協力隊へ応募。 協力隊の試験は、一次試験(書類審査)、二次試験(希望職種の面接と人物面接の2つ)があります。

一次試験を突破した頃、上司にも相談し、幸いにも背中を押していただきました。 しかし、1回目と書いているのでお察しかもしれませんが、面接試験で落ちてしまいました。 原因は根拠のない自信(笑)

協力隊には教師や看護師、サッカーコーチ、自動車整備士など、120を超える職種があります。

私が志望していたのはコミュニティ開発という職種。実際に村や地域のコミュニティに入り、住民の収入向上や生活改善に携わるというもの。

実はこの職種、そこそこの語学レベルを求められる案件もありますが、国家資格などは特に求められません。それ故か倍率も全職種の中で最も高い分野。

さらに、コミュニティ開発の志望者は、将来国際機関で働くことを目標としている人、複数言語を話せる人、聞いたことのある名前の大学の人など、猛者がわんさかいました。

心持ちも情報集めも努力不足だったのが1回目の試験でした。

次回は、不合格からのその後について書きたいと思います。

自主隔離を終え、地元へ。

こんばんは。 お久しぶりです。

先週東京での14日間を無事、異常なく終え茨城に戻ってきました。現在は念のため部屋に篭った生活を送っております。家族とも食事は一緒に摂らず、孤食です。検温も続けています。

人口密度が低く、ウガンダと違って日中外に出ている人影も圧倒的に少ないもので、多少の散歩はしています。 (そうしないと精神衛生上厳しい。笑)

今後についてはまだ方針は出ておらず、相変わらず宙に浮いたこの気持ちの行き場も無いのが現状。

いざウガンダに行く前は、2年間をやり切った後に、さらに学びたい分野を深めるため大学院を目指そうとか、あるいは海外と関わりのある分野で働こうか、など漠然とした道筋を思い描いていたけれど、その漠然としたイメージすら霧散しているのが今。

向こうで体調を崩しつつも、「なんとかやっていこう!」と思いはじめたタイミングで緊急退避となったもので、自分の体調面から考えて途上国で2年間過ごすこと自体も可能なのか、と考え始めている自分もいる。

ありがたいことに、いろんな方から今後の選択肢を挙げていただいたりもしている。 ただ、そこにすぐさまイエスと言えない状態です。

2年間途上国で活動する、生活するという決断をしたのは自分の意思だけど、それなりに覚悟してきたからその分の反動が大きいのだと思う。

そんなわけで、とりあえず今はある程度のお金を得るための仕事探しや、住む場所探しもしているところです。再派遣がいつになるか分からないためです。

唐突ですが、30歳になった時にどんな大人になっているか、と春の日差しにあたりながら考えたり。 この経験を超えた先に、今より深みのある面白い人間になれているかな。

さいごに。 4か月ぶり(訓練期間中を含め半年ぶりくらい)にゆっくりと実家にいるわけですが、隣の家から赤ちゃんの声が聞こえてきます。

4ヶ月前よりもおしゃべりになったその声は、この混沌とした世の中において、まさに希望だなぁと思いました。

若いお父さんお母さん、赤ちゃん。どうか身体にお気をつけてくださいな。もちろんその他の皆さんも。

協力隊になってせっかく続けてきたブログなので、心境の変化や協力隊になるまでの経緯なども書いていけたらと思っています。

それではまた!

一時帰国。

一時帰国。

タイトルの通り、コロナが世界的に拡大している現状。各メディアでも取り上げられていましたが、自分たち青年海外協力隊にもこの影響は大きく、先日、世界各国、およそ1800名の隊員を帰国させる方針が決定されました。

国ごとに帰国日は異なりますが、ウガンダ派遣の自分たちは木曜にウガンダを出国、金曜に日本に帰ってきました。

現在はJICAの指示に従って2週間の隔離生活を送っています。空港や飛行機など、コロナ感染者がいるかもしれない場所にいたこともあって、万が一に備えての措置と言えます。

(※コロナに感染して云々、というよりは国際線、陸路、空路が遮断されて、万が一の場合に医療などのサポートが受けられないことなどを考慮しての帰国です。その他差別など。単純に現在の感染者数で言えば日本の方が圧倒的に多く、そういう意味でリスクは高いです。)

この1週間から10日を振り返ると怒涛でした。

まず、コロナとは別な話で、自分の体調が悪化。全身蕁麻疹が続き、首都で検査結果を待っているところでした。 この結果がわかると言われたのが、今週の火曜日。それまでは首都で待機していました。

と、そんな最中でコロナの影響を受けて、緊急時に備えた荷物の整理をするよう連絡が来ました。

火曜日。急いで病院へ。 結局、ナイロビから送られてくるという話であった結果は病院に行ってみたら、また明日来て、と言われて。

とりあえず任地に戻ろう、という道中で週末帰国の連絡を受けました。 配属先、活動先、ホストファミリー、近所の人に挨拶を済ませ、荷造りを済ませ。

金曜のフライトの予定が木曜に早まって。 ちょっと省略しますが、そんなこんなで今は日本に戻ってきました。

昨日ウガンダでも遂にコロナの感染者が確認されました。陸路、空路も貨物以外の出入りがシャットアウトされます。 学校は休校、イベントや集会も中止。

あと少し出国が遅かったら、、 出られなかった。

出られなかったら、、 もしかしたら混乱に巻き込まれるリスクが上がるかもしれない。買い占めが起きて任地での生活が厳しくなったかもしれない。既に起きていたコロナ、コロナと言われるアジア人差別がもっとひどくなっていたかもしれない。

かもしれない、というか今向こうにいたらそういう場面に会う確率はかなり高いのだと思います。

そんな状況が読めない中で、 JICAスタッフの皆さん、そして、その対応には頭が下がります。ありがたい限りです。

今後について。 まずは2週間の隔離期間何事も起きないことを願います。外出禁止の生活中です。

その後。いつ自分たちがウガンダに戻れるかはまだわかりません。

今は。 今は体を休め、頭を休め、心を休め、その上で何ができるか、すべきか、考え、動きたいと思います。

ウガンダでの3ヶ月ちょっと。この期間は自分にとっては体調が本当に思い通りにいかない期間でした。メンタル面の方も、ですね。

体調が悪くなると、気持ちも落ちてくる、そんな気持ちの中で頭を巡るのはネガティブなことが自ずと増えていました。

プラスに全てを捉えようと試みてはいたけれど。

なので。 なので、まずはこれをフラットな状態に戻すところから。心身ともに落ちている状況では、考えることも、それに応じた行動もマイナス要因に基づいてしか決められないと思うので。

検査結果も一つ、よくわからない項目でチェックがついていたので一応検査に行こうかな。

写真は任地を出る前にお母さんがくれたチテンジのケース。多分iPadとかそういうの向け。 なんだかんだで少しずつ関係も築けていたんだな、って実感しました。

とりあえず充電します。

3月11日。そして3ヶ月。

ウガンダに来て3ヶ月が経ちました。 今日は3月11日。

あれからもう9年か〜 震災のことはあまり長く書くつもりはないけど、地元の茨城では1週間以上水無しガス無し、電気も数日間こない経験をしました。

その後は諸々の問題で外で部活ができるのか、プールの授業はできるのか?とかで議論があって。

家の塀は壊れ、棚も、壁にひびも入って。 風呂も入れないから水汲みに行ったり、並んだり、隣の市からわざわざお湯持ってきてもらったり。色々あった。

大学は縁あって福島に進んで、ボランティアはもちろん、それに関わらなくても、ゼミや講義や日常生活に震災が大きく関わっていた。

線量計もそこらへんにたくさんあったし、黒い袋もそこらへんにあったし、仮設住宅もたくさんあった。

4年間で見聞きしてきたもの、こと、出会ってきた人たち。この経験は間違いなく自分のその後の選択に大きく関わってきています。

長くなってしまった。この辺にしておきます。 話を戻します。そう、ウガンダに来て3ヶ月が経ちました。

そのjust nowな近況は?

というと、体調が再び悪くなってしまいました。数日間全身の蕁麻疹に悩まされています。 文字通り頭から足先まで。全身です。口の中の痛痒さもあり、夜も眠れず、活動どころじゃないかなってことで首都まで上がってきました。 病院です。

原因は小麦粉や卵、ストレス、ハウスダスト、ダニ、、 色々調べるとでてきてわかりません。

お尻を痛めていた頃から喉の腫れ、夜になると咳が出る症状もあったので、これも関連するのかな、とか勝手に予測している。

昨日は血液検査を受けてきたので、この結果を待っているところ。5営業日くらいかかるとのこと。

あえて日本での話をすると、これでも一応元高校球児で練習だけは馬鹿みたいにしていたし、会社でも疲れやストレスがあっても、今回のように蕁麻疹がバーっと出ることもなく。

だから今は自分の身体意外と弱いな、体力落ちてるのかなーとかも考えています。笑

思ったようにまったくなってくれない自分の身体。葛藤。でもちょっと休みます。

写真は学生時代、福島市を高台から撮った写真と仙台のけやき通り。

モチベーション。

ウガンダに来て約3ヶ月。赴任から1ヶ月。 正直モチベーションは急下降、自分がここにいる意義とは一体?と感じていました。 感じています、ではなく、感じていました、とあえて書いておきます。

収入向上、とはそもそも必要なのだろうか? 配属先に自分は必要とされているのだろうか? 要請内容、とは本当に「要請負い(よううけおい)」なのか? はてなマークがたくさんあったのが本音でした。

コミュ開の研修で受けてきたこと、訓練所で高い目標を持った人たちとたくさん出会ってきたこと。 自分自身、何かここでできることがある、やるべき、しなければ、と考えてウガンダに、任地にやってきました。

実際に来てみると、それらは自分の空想に過ぎなかったし、思ったようにも動けない。訓練所でも自分の小ささを感じたけれど、ここではさらに自分の無力さを痛感させられていました。

結果、赴任1ヶ月目で病院に。体調を崩し、ぶっちゃけると今日もまた鮮血は再発しています。

そして。引継ぎの難しさ。前任という存在の大きさ。前任が立ち上げたグループ。前任と一緒に関わるイベント。前任と自分がウガンダにいるという稀なこの状況。距離感。

いろんな捉え方、意見、人の見方。あると思います。正直。正直本当に難しい。比べるなと言われても比べます。自分の捉え方次第なんですけどね。

そんな中で、1ヶ月が経ってみてモチベーションは久しぶりに最下層まで落ちました。 任地縛りが明けて、他県のかつての販路を見に行くことを決めていましたが、これについても、よくわからなくなっていました。

カンパラで。ジンジャで。活動状況についていろんな人と話し、ご意見をいただいて。 背中を押してもらえることもあるし、自分が持っていなかった目線のご意見を持ってる方もいて、学びにもなりました。 ただ、これを全て、10割で受け止めていると持たないな、と感じ。ありがたみを感じつつも、気力はさらに落ちました。

それでも。最初の文で、自分がここにいる意義とは一体、と「感じていました」と書いたことには理由があって。 それは、この境遇にいるのは自分だけではないと感じることができたから。同期の存在があったからです。当然一人ひとりの状況は違うけれど、それぞれが、それぞれの壁に、あるいは自分自身に向き合ってもがいている。それを任地縛りが明けてカンパラで、ジンジャで会った同期と話すことができたからです。 (日本にいる家族や友人の支えももちろんですが)

自分は自分。そして、捉え方も自分次第。エネルギーを横道で使い過ぎたくないし、それなら現地の人にその分を注げた方が良い。その中でもせっかく2年間いるなら、楽しむことも忘れないでいたい。

人によって活動のスタンスは違うかもしれないけど、そんなの当たり前。今は自分の芯を少し優先して考えても良いかな、と。

新しいステージに行くと壁はやっぱり存在する。今回は今までとはまた違う壁がここにある。でもこの壁として遭遇する出来事、環境、関係は後から振り返ったらむしろ感謝するものになる。壁を登った時、それは今まで見えなかった素敵な景色を見せてくれる場所になる。なってくれる。

だから2年後この出来事、環境、関係と巡り合えて良かった、と思えるくらい覚悟も持って、自分の捉え方も変えて、活動していきたいと思います。

p.s あいのりアフリカンジャーニーのロケ地もたくさんまわってきました。笑